kishitoko / 岸 透子
毎年東京都美術館で開催されている全展、状況を鑑みて一年延期です。
次は無事に開けることを願って注意深く生き続け、描き続けようと思っています。
今年、事務局長の風間徹志さんが逝去されました。優しい笑顔が思い出されます。もっとお話しし… https://t.co/88WeNMPVFJ at 09/18 18:40
これまで通り安心してご覧ください。
2020年09月19日
2020年09月18日のTwitter
2020年09月10日
人間は自然から生まれた生物でありピュシスである。
人間は自然から生まれた生物でありピュシスである。
自然界も生物も本来は不潔な存在であり、完全な清潔を求める人間の行動は必ず軋轢を生み出す。
これには完全に同意。
でも、これを単純化して発想した「清潔にしすぎると病気になる」的な思い込みには反対しておく。
清潔をどこまで求めるのかは程度問題だ。そして個人差もある。
程度問題とは、どこまで原始に戻るのが自然なのかということ。
水道の使用をやめ、地面に溜まった泥水を飲んで暮らすのが、自然で健康な人生をもたらすのかどうか。
浄水場で消毒された水道の水を生活に使う方が、今の人間は健康に生きられる。
人間はその技術を開発し、すでにそれを「普通」にしてしまった。
体の負担を減らすように温度湿度を管理した家の中で暮らし、鍵を掛ければ攻撃者は入ってこないという安心感の元に眠る。
それが今の人間の健康の源だ。
それから個人差。
私は少しでも埃や土、カビのありそうなものを扱う際にはマスクと手袋を着用する。
それは、実際に痛いからだ。
皮膚に付いたらすぐにチクチクとした刺すような痛みに襲われる。
吸い込んだ場合は、すぐに来るのは鼻とのどの痛み。
それから遅れて、種類によって様々な症状が出る。
数十分後から数週間にわたって皮膚炎が悪化する物もあれば、数時間後から翌日に酷い頭痛が出る物もある。
埃のついた本を手にとっても痛くない人なら、手袋なしに扱えばいい。
だが私の体質では被害が出る。それが分かっているから予防のために手袋やマスクをつける。
もし手袋なしに触ってしまったらできるだけ早く手を洗う。
気持ちの問題ではなく、皮膚が痛いからで、放置すれば皮膚炎が悪化するからで、洗い落とせばそれらがなくなるからだ。
加えて言うと、私がこんな風に気を付けるようになったのは、大人になって病気が重くなってから。
「子供の頃から清潔すぎる環境で過ごしていたから病気になった」なんてとんでもない。
幼い頃は家の周りは舗装していない土ばかりで、私は近所の男の子たちを率いるガキ大将で、田舎の子らしく泥遊びをしたり、虫を素手で捕まえたり、木に登ったり屋根に登ったり塀の上を走ったり、腰より高い草ぼうぼうの空き地を漕ぎ回ったり、川で魚を捕まえたり……当然、土やホコリや虫やカビに塗れて平気で過ごしていた。
むしろ
「ホコリやカビで死にゃあしない」
と思っていた。
今は
「違ったわ私はホコリやカビや虫で死にかねないわ」
と考えを改めている。
散々痛い思いをして、一つずつ体調に悪影響を及ぼす物、そういう物が溜まりがちな場所などを覚えてきた。
おかげで今では、触る前に「これは素手ではヤバイな」という物や場所がたいてい分かる。
これが、経験したことのない人には理解できないらしい。
思い込みで過剰な行動をしていて、そのせいで病気が治らないのだと思っている。
何度か論理立てて説明してみたけれど、そういう人はその時は理解したようでも、数年後にはまた「無駄に手袋なんかしているからかえって病気が悪化するんだよ」と、したり顔で言ってくる。
結局、理解できていなかったのだろう。
そろそろ私自身は傷付いたりしなくなってきた。
病気のせいで大変な不自由や負担や心の重荷まで背負うことになったとしても、それで得られる体験や思考というのはとても貴重なものだと分かってきたからだ。
それを身をもって示してくれる人生の先輩も少なくない。
理解できない人は、気の毒な人生を送っていると思う。
物事を自分に都合の良いように捻じ曲げて理解してしまうから、本当のことを知ることはできないし、だからずっと自分に自信が持てず、取り繕うためにさらに物事を曲解し続けて、他人も社会も自分自身も、すべてを誤解し続けるしかない。
私はそうならなくて幸運だったとさえ思う。
ただ、でも、すべて「人間」だ。
健康でも、病気や障碍が重くても。
長生きでも、短命でも。
物事を深く理解できても、表面的にしか理解できなくても。
人を癒し続けても、傷付け続けても。
どちらが優れているわけでもない。
それが人間だ。
自然界も生物も本来は不潔な存在であり、完全な清潔を求める人間の行動は必ず軋轢を生み出す。
これには完全に同意。
でも、これを単純化して発想した「清潔にしすぎると病気になる」的な思い込みには反対しておく。
清潔をどこまで求めるのかは程度問題だ。そして個人差もある。
程度問題とは、どこまで原始に戻るのが自然なのかということ。
水道の使用をやめ、地面に溜まった泥水を飲んで暮らすのが、自然で健康な人生をもたらすのかどうか。
浄水場で消毒された水道の水を生活に使う方が、今の人間は健康に生きられる。
人間はその技術を開発し、すでにそれを「普通」にしてしまった。
体の負担を減らすように温度湿度を管理した家の中で暮らし、鍵を掛ければ攻撃者は入ってこないという安心感の元に眠る。
それが今の人間の健康の源だ。
それから個人差。
私は少しでも埃や土、カビのありそうなものを扱う際にはマスクと手袋を着用する。
それは、実際に痛いからだ。
皮膚に付いたらすぐにチクチクとした刺すような痛みに襲われる。
吸い込んだ場合は、すぐに来るのは鼻とのどの痛み。
それから遅れて、種類によって様々な症状が出る。
数十分後から数週間にわたって皮膚炎が悪化する物もあれば、数時間後から翌日に酷い頭痛が出る物もある。
埃のついた本を手にとっても痛くない人なら、手袋なしに扱えばいい。
だが私の体質では被害が出る。それが分かっているから予防のために手袋やマスクをつける。
もし手袋なしに触ってしまったらできるだけ早く手を洗う。
気持ちの問題ではなく、皮膚が痛いからで、放置すれば皮膚炎が悪化するからで、洗い落とせばそれらがなくなるからだ。
加えて言うと、私がこんな風に気を付けるようになったのは、大人になって病気が重くなってから。
「子供の頃から清潔すぎる環境で過ごしていたから病気になった」なんてとんでもない。
幼い頃は家の周りは舗装していない土ばかりで、私は近所の男の子たちを率いるガキ大将で、田舎の子らしく泥遊びをしたり、虫を素手で捕まえたり、木に登ったり屋根に登ったり塀の上を走ったり、腰より高い草ぼうぼうの空き地を漕ぎ回ったり、川で魚を捕まえたり……当然、土やホコリや虫やカビに塗れて平気で過ごしていた。
むしろ
「ホコリやカビで死にゃあしない」
と思っていた。
今は
「違ったわ私はホコリやカビや虫で死にかねないわ」
と考えを改めている。
散々痛い思いをして、一つずつ体調に悪影響を及ぼす物、そういう物が溜まりがちな場所などを覚えてきた。
おかげで今では、触る前に「これは素手ではヤバイな」という物や場所がたいてい分かる。
これが、経験したことのない人には理解できないらしい。
思い込みで過剰な行動をしていて、そのせいで病気が治らないのだと思っている。
何度か論理立てて説明してみたけれど、そういう人はその時は理解したようでも、数年後にはまた「無駄に手袋なんかしているからかえって病気が悪化するんだよ」と、したり顔で言ってくる。
結局、理解できていなかったのだろう。
そろそろ私自身は傷付いたりしなくなってきた。
病気のせいで大変な不自由や負担や心の重荷まで背負うことになったとしても、それで得られる体験や思考というのはとても貴重なものだと分かってきたからだ。
それを身をもって示してくれる人生の先輩も少なくない。
理解できない人は、気の毒な人生を送っていると思う。
物事を自分に都合の良いように捻じ曲げて理解してしまうから、本当のことを知ることはできないし、だからずっと自分に自信が持てず、取り繕うためにさらに物事を曲解し続けて、他人も社会も自分自身も、すべてを誤解し続けるしかない。
私はそうならなくて幸運だったとさえ思う。
ただ、でも、すべて「人間」だ。
健康でも、病気や障碍が重くても。
長生きでも、短命でも。
物事を深く理解できても、表面的にしか理解できなくても。
人を癒し続けても、傷付け続けても。
どちらが優れているわけでもない。
それが人間だ。
2020年09月08日
2020年09月07日のTwitter
kishitoko / 岸 透子
台風10号の暴風が吹き荒れ、唸り声のような轟音が響き雨戸もガタガタ揺れていた今朝方、少し風が収まるとリーリーと虫の声が聞こえてきました。
多分、風が強い間もずっと鳴き続けてたみたい。
虫、暴風じゃ休めないんだ…。
幸い、うちは被… https://t.co/Pq7BXKP5Wb at 09/07 19:37