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2023年08月21日

夏休みの宿題

夏休みの宿題は、最初ちょっとやるけど結局溜め込んで最後に慌ててやる方でした。

はじめに描く理想図が壮大すぎて手に負えなくなり現実的な姿に落とし込むまで夏休み全部を費やす身の程知らずタイプ。


今の絵の制作もだいたいそんな感じです。

取れる期間の大半をどうするべきか悩み続けて〆切直前になってやっと現実的な作品像がまとまってきて、最後に慌てて全力疾走。

余裕を持って仕上げられそうな場合もさらに悪あがきして結局ギリギリ。

きっと人生全体もそんな風になるんだろうなと小学生の頃から思ってたけど今も思ってる。


始めから身の丈に合った目標を描けばいいんだけど、これはこれで人間らしい人生の味わい方として面白い面もあるので、やっぱり一生このままかなあ。


画像は今描いてる絵の没バージョン


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posted by 透子 at 13:53 | Comment(0) | TrackBack(0) | 雑記帳

2023年08月15日

珊瑚礁を見ていると

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いつか人類が滅んで何千万年か経ったら、私たちが使っている建物や衣服やスマホやこの絵なんかも、粉々になって何かの景色を形作るんだろうか


その時にそれを眺める何かにとってそれらが美しいと感じられればいい


珊瑚礁やカルスト大地やホワイトクリフはかつてサンゴ虫が作った「家」だと思うとき、そんな事を期待したくなります。

posted by 透子 at 18:45 | Comment(0) | TrackBack(0) | 雑記帳

2023年08月05日

二組に分かれるやつ

今唐突に思い出したけど子供の頃、二組に分かれるときにやってたのは

♪グーとパーで分かれましょ

じゃなくて

♪うらおもて

だった…!

なぜか漠然と一番平凡なやつだと思い込んでたけどなんでこんな記憶の捏造が。

じゃんけんは、山口のは強烈なので忘れないんだけどな。
posted by 透子 at 18:10 | Comment(0) | TrackBack(0) | 雑記帳

2022年08月08日

「疑問」

人間にとって疑問とは、道に開いた大きな穴のようなものだ。

放っておく事はできない。

穴は埋めなければならない。

埋めるために使う物は、必ずしも正解でなくてもいい。

穴を埋めてくれさえすれば、事実と違っても構わない。

とりあえず仮に、適当な思いつきで穴を埋めておく。

でも穴が埋まればわりと満足して忘れてしまう。

それが人間の習性だ。
posted by 透子 at 19:33 | Comment(0) | TrackBack(0) | 雑記帳

2022年06月23日

「思考」のつくりかた

情報は検索して調べることができる。
でもそれだけでは「思考」にならない。

検索して得られる情報はいわば、
「料理の具材」。

野菜や肉はカットしたものを買ってくることもできる。
けれどそれらを鍋に入れて調理しなければシチューはできない。

材料から味が溶け出して他の味と混ざり合い、1つのオリジナルの味になるまでには、じっくり時間をかけて調理し、煮込まなければならない。

様々な知識や情報を人間と言う鍋の中に入れ、しっかりと温め、焦げ付かないように気をつけてかき混ぜながら一つの味を作っていかなければ、思考は育たない。

最近では調理済みの「レトルト思考」も多く出回っていて、それを鍋に入れるだけでも「自分」が出来たような気になれることもある。
でもそれは他の誰かが調理してくれたもので、完璧な状態は一時的。

生きていればどうしても自分だけの別の情報、違う状況が入ってくる。
そうすると味は変わって、パックを開いた直後の完璧な状態とは変わってしまう。

結局、調理は自分でし続けていくしかないのだ。


難しいけれど大丈夫。

人間と言う鍋は本来、思考を育てるためにちょうど良い温度にできているのだ。
posted by 透子 at 17:41 | Comment(0) | TrackBack(0) | 雑記帳

2022年04月07日

最近気がついた言葉の変化

最近気がついた言葉の変化

(無い) ありません
     ↓
(無い) ないです

(有る) ありました
(無い) ありませんでした
     ↓
(有る) あったです
(無い) なかったです

(過去形)  〜でした
     ↓
(過去形) 〜だったです

いくつかは、ここだけ抜き出して文字で目にするとまだ違和感があるけど、会話やテレビなどの中ではよく耳にします。

「そういう事もあったですね」とか
「あれは印象的だったですね」とか。

自分でも言っていることがあります。
その時は、この方がより相手に分かりやすいのではないかという気がして使っています。

言葉の変化は、文法をより単純化する方向で起こるのだそうです。

丁寧にするために複雑化しすぎた文法が、単純に分かりやすい方向に揃えられていくと言う事だそう。

そういう意味では「です」と「でした」を使い分けるよりも、語尾は一貫して「です」にして、その前に「だった」を加えて過去形にする方がシンプルなのかもしれません。
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タグ:雑談
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2021年07月27日

ひぐらしの声のはじまり

20210727.png

いつだったか、早朝まだ暗く静かな時間に目が覚めたことがありました。
七月の山口の朝は明け切らない頃からひぐらしやニイニイゼミ、ヒヨドリの声に包まれているものですが、その時はまだ誰も鳴いていなくて、ちょうど寝付けなかった私はひぐらしが鳴き始める瞬間を待ってみることにしました。
ひぐらしの声はいつも気が付くとたくさん重なって響いていて、あれは最初から皆で一斉に鳴き出すのか、それとも誰か一匹が先行して少しずつ増えるのか気になっていたのです。

しばらくしてカーテンの隙間からのぞく空がわずかに藍色に見えるかどうか、という頃に遠くから「カナカナカナ…」と一匹の声が小さく響いてきました。それから数十秒のちにもう少し近くで一匹、二匹。やや遠くで数匹と声が重なり始め、少しずつ増える静かな響きがさざなみのようにひたひたと打ち寄せてきて、数分でいつもの朝の声に包まれていきました。

それからは少し遅れて近くでニイニイゼミが「ジーーー」と鳴き出し、ヒヨドリも時々「ヒー!」「ピー!」と鳴き交わして、空が薄明るくなる頃にはすっかりいつもの朝の合唱が出来上がっていました。

その日はひぐらしの鳴き始める瞬間を確認できたので満足でした。
寝不足はすぐに皮膚が悪化してヒリヒリ痛痒くて辛いけど、こういうのは一生の宝物になります。
posted by 透子 at 20:43 | Comment(0) | TrackBack(0) | 雑記帳

2020年09月10日

人間は自然から生まれた生物でありピュシスである。

人間は自然から生まれた生物でありピュシスである。
自然界も生物も本来は不潔な存在であり、完全な清潔を求める人間の行動は必ず軋轢を生み出す。

これには完全に同意。


でも、これを単純化して発想した「清潔にしすぎると病気になる」的な思い込みには反対しておく。

清潔をどこまで求めるのかは程度問題だ。そして個人差もある。

程度問題とは、どこまで原始に戻るのが自然なのかということ。
水道の使用をやめ、地面に溜まった泥水を飲んで暮らすのが、自然で健康な人生をもたらすのかどうか。

浄水場で消毒された水道の水を生活に使う方が、今の人間は健康に生きられる。
人間はその技術を開発し、すでにそれを「普通」にしてしまった。

体の負担を減らすように温度湿度を管理した家の中で暮らし、鍵を掛ければ攻撃者は入ってこないという安心感の元に眠る。
それが今の人間の健康の源だ。


それから個人差。
私は少しでも埃や土、カビのありそうなものを扱う際にはマスクと手袋を着用する。
それは、実際に痛いからだ。

皮膚に付いたらすぐにチクチクとした刺すような痛みに襲われる。
吸い込んだ場合は、すぐに来るのは鼻とのどの痛み。
それから遅れて、種類によって様々な症状が出る。

数十分後から数週間にわたって皮膚炎が悪化する物もあれば、数時間後から翌日に酷い頭痛が出る物もある。

埃のついた本を手にとっても痛くない人なら、手袋なしに扱えばいい。
だが私の体質では被害が出る。それが分かっているから予防のために手袋やマスクをつける。

もし手袋なしに触ってしまったらできるだけ早く手を洗う。
気持ちの問題ではなく、皮膚が痛いからで、放置すれば皮膚炎が悪化するからで、洗い落とせばそれらがなくなるからだ。


加えて言うと、私がこんな風に気を付けるようになったのは、大人になって病気が重くなってから。
「子供の頃から清潔すぎる環境で過ごしていたから病気になった」なんてとんでもない。

幼い頃は家の周りは舗装していない土ばかりで、私は近所の男の子たちを率いるガキ大将で、田舎の子らしく泥遊びをしたり、虫を素手で捕まえたり、木に登ったり屋根に登ったり塀の上を走ったり、腰より高い草ぼうぼうの空き地を漕ぎ回ったり、川で魚を捕まえたり……当然、土やホコリや虫やカビに塗れて平気で過ごしていた。

むしろ
「ホコリやカビで死にゃあしない」
と思っていた。

今は
「違ったわ私はホコリやカビや虫で死にかねないわ」
と考えを改めている。

散々痛い思いをして、一つずつ体調に悪影響を及ぼす物、そういう物が溜まりがちな場所などを覚えてきた。

おかげで今では、触る前に「これは素手ではヤバイな」という物や場所がたいてい分かる。


これが、経験したことのない人には理解できないらしい。
思い込みで過剰な行動をしていて、そのせいで病気が治らないのだと思っている。

何度か論理立てて説明してみたけれど、そういう人はその時は理解したようでも、数年後にはまた「無駄に手袋なんかしているからかえって病気が悪化するんだよ」と、したり顔で言ってくる。

結局、理解できていなかったのだろう。


そろそろ私自身は傷付いたりしなくなってきた。
病気のせいで大変な不自由や負担や心の重荷まで背負うことになったとしても、それで得られる体験や思考というのはとても貴重なものだと分かってきたからだ。

それを身をもって示してくれる人生の先輩も少なくない。


理解できない人は、気の毒な人生を送っていると思う。

物事を自分に都合の良いように捻じ曲げて理解してしまうから、本当のことを知ることはできないし、だからずっと自分に自信が持てず、取り繕うためにさらに物事を曲解し続けて、他人も社会も自分自身も、すべてを誤解し続けるしかない。

私はそうならなくて幸運だったとさえ思う。


ただ、でも、すべて「人間」だ。


健康でも、病気や障碍が重くても。

長生きでも、短命でも。

物事を深く理解できても、表面的にしか理解できなくても。

人を癒し続けても、傷付け続けても。

どちらが優れているわけでもない。


それが人間だ。
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2020年07月23日

私は自死を否定しない。

私は自死を否定しない。

どんなに愛する人や愛してくれる人に囲まれていても、未来に可能性があっても、生きていることが耐えられないほどの苦痛と言うのは残念ながら存在する。

本人がよく考えて、「この苦痛が消えるなら全てが消えてもいい」と覚悟して決めたなら、それは人生の選択の中の一つだ。
その人のことを大切に思うなら、その最後の選択を受け入れることもまた優しさなのではないか。

もちろん苦痛が解消されて生き続けたいと思えるようになるのが一番いい。でも残念ながら、それが不可能なことも、ある。どうしても、ある。

本人が納得しての行動なら、「これで全ての苦痛が消える」と感じられた最後の瞬間には、心から幸せを感じることができたかもしれない。
それだけで「生まれてきてよかった」と、自分の人生を肯定できるくらいの幸福を感じていたかもしれない。

自ら命を断ったことで、その人の人格、人生の全てを否定する必要はない。


それでも1つだけ。

30歳なんてまだ子供です。
その時には「自分ももう経験を積んでいい年なのだから、もっと大きな大人になっていなくてはいけないのに」と思うが、50歳になってみれば30歳なんて経験も浅いし何も分からず、子供のままで何も不思議はない。
周りの人が皆もっと立派な大人に見えるのは、全員、見栄を張っているから。
特に40代50代ぐらいまではみんな自分を大きく見せようと必死で虚勢を張っています。本当は皆、自分に自信がないのです。
内心、周りの人は皆立派なのになぜ自分だけがこんなにもうまくいかないのだろう、成長できないのだろうと思っている。実は思春期の頃と大して変わりはない。
そこから10年20年かけて、やっと自分が思う「30代の大人」くらいになれる。
だから30歳やそこらで、その時の自己評価をもとに自らを否定する必要なんてない。

そして、絵描きや小説家など、作品を作る人間によく知られていることがある。

ーー「この作品は手に負えない」、「自分にはとても描き切れない」と思ったら、それこそが描くべき作品だーー

人間も同じです。

自分はダメだ、もっと立派に生きるべきなのにそれができないと思ったら、その人生こそ生きる価値がある。
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2019年08月07日

心霊写真の違和感

昔はお盆の頃になるとよくテレビで心霊写真を紹介するバラエティ番組があって、それが好きでした。

心霊現象にはあまり詳しくないし、実はそれ自体にはさほど興味はありません。
面白いのは写真そのもの。

動きも音もない写真、写っているのは見慣れた人の姿なのに、その位置や色がおかしいだけであれだけ皆に共通した恐怖を呼び起こすことができる、それはビジュアルの力です。

写真を見ながら、どんな所が怖いのか、そしてそれを怖いと感じるのはなぜか、自分が感じる恐怖の種類や原因を探って行くと、人間が世界にどう対処しようとして進化してきたのかにつながっていきます。

恐怖の原因は強烈な違和感。
怪談噺での「あれ?…おかしい」ってやつ。
違和感を避けることで生物は危険を回避して生き延びてきたのでしょう。

違和感は感動の原因にもなります。
慌ただしい日常の中で物事の本質に気づくきっかけにもなって、それが癒しに繋がることもある大切なものです。
表現は、いかに独自の違和感をうまく含ませて注意を引き、言いたいことを伝えるかの勝負でもあります。

デジタルカメラと画像編集ソフトが一般に普及してから、心霊写真ものはすっかり見なくなりました。
ちょっと残念です。
posted by 透子 at 12:41 | Comment(0) | TrackBack(0) | 雑記帳
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