人間にとって疑問とは、道に開いた大きな穴のようなものだ。
放っておく事はできない。
穴は埋めなければならない。
埋めるために使う物は、必ずしも正解でなくてもいい。
穴を埋めてくれさえすれば、事実と違っても構わない。
とりあえず仮に、適当な思いつきで穴を埋めておく。
でも穴が埋まればわりと満足して忘れてしまう。
それが人間の習性だ。
これまで通り安心してご覧ください。
2022年06月23日
「思考」のつくりかた
情報は検索して調べることができる。
でもそれだけでは「思考」にならない。
検索して得られる情報はいわば、
「料理の具材」。
野菜や肉はカットしたものを買ってくることもできる。
けれどそれらを鍋に入れて調理しなければシチューはできない。
材料から味が溶け出して他の味と混ざり合い、1つのオリジナルの味になるまでには、じっくり時間をかけて調理し、煮込まなければならない。
様々な知識や情報を人間と言う鍋の中に入れ、しっかりと温め、焦げ付かないように気をつけてかき混ぜながら一つの味を作っていかなければ、思考は育たない。
最近では調理済みの「レトルト思考」も多く出回っていて、それを鍋に入れるだけでも「自分」が出来たような気になれることもある。
でもそれは他の誰かが調理してくれたもので、完璧な状態は一時的。
生きていればどうしても自分だけの別の情報、違う状況が入ってくる。
そうすると味は変わって、パックを開いた直後の完璧な状態とは変わってしまう。
結局、調理は自分でし続けていくしかないのだ。
難しいけれど大丈夫。
人間と言う鍋は本来、思考を育てるためにちょうど良い温度にできているのだ。
でもそれだけでは「思考」にならない。
検索して得られる情報はいわば、
「料理の具材」。
野菜や肉はカットしたものを買ってくることもできる。
けれどそれらを鍋に入れて調理しなければシチューはできない。
材料から味が溶け出して他の味と混ざり合い、1つのオリジナルの味になるまでには、じっくり時間をかけて調理し、煮込まなければならない。
様々な知識や情報を人間と言う鍋の中に入れ、しっかりと温め、焦げ付かないように気をつけてかき混ぜながら一つの味を作っていかなければ、思考は育たない。
最近では調理済みの「レトルト思考」も多く出回っていて、それを鍋に入れるだけでも「自分」が出来たような気になれることもある。
でもそれは他の誰かが調理してくれたもので、完璧な状態は一時的。
生きていればどうしても自分だけの別の情報、違う状況が入ってくる。
そうすると味は変わって、パックを開いた直後の完璧な状態とは変わってしまう。
結局、調理は自分でし続けていくしかないのだ。
難しいけれど大丈夫。
人間と言う鍋は本来、思考を育てるためにちょうど良い温度にできているのだ。
2022年04月07日
最近気がついた言葉の変化
最近気がついた言葉の変化
(無い) ありません
↓
(無い) ないです
(有る) ありました
(無い) ありませんでした
↓
(有る) あったです
(無い) なかったです
(過去形) 〜でした
↓
(過去形) 〜だったです
いくつかは、ここだけ抜き出して文字で目にするとまだ違和感があるけど、会話やテレビなどの中ではよく耳にします。
「そういう事もあったですね」とか
「あれは印象的だったですね」とか。
自分でも言っていることがあります。
その時は、この方がより相手に分かりやすいのではないかという気がして使っています。
言葉の変化は、文法をより単純化する方向で起こるのだそうです。
丁寧にするために複雑化しすぎた文法が、単純に分かりやすい方向に揃えられていくと言う事だそう。
そういう意味では「です」と「でした」を使い分けるよりも、語尾は一貫して「です」にして、その前に「だった」を加えて過去形にする方がシンプルなのかもしれません。
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(無い) ありません
↓
(無い) ないです
(有る) ありました
(無い) ありませんでした
↓
(有る) あったです
(無い) なかったです
(過去形) 〜でした
↓
(過去形) 〜だったです
いくつかは、ここだけ抜き出して文字で目にするとまだ違和感があるけど、会話やテレビなどの中ではよく耳にします。
「そういう事もあったですね」とか
「あれは印象的だったですね」とか。
自分でも言っていることがあります。
その時は、この方がより相手に分かりやすいのではないかという気がして使っています。
言葉の変化は、文法をより単純化する方向で起こるのだそうです。
丁寧にするために複雑化しすぎた文法が、単純に分かりやすい方向に揃えられていくと言う事だそう。
そういう意味では「です」と「でした」を使い分けるよりも、語尾は一貫して「です」にして、その前に「だった」を加えて過去形にする方がシンプルなのかもしれません。
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タグ:雑談
2021年07月27日
ひぐらしの声のはじまり

いつだったか、早朝まだ暗く静かな時間に目が覚めたことがありました。
七月の山口の朝は明け切らない頃からひぐらしやニイニイゼミ、ヒヨドリの声に包まれているものですが、その時はまだ誰も鳴いていなくて、ちょうど寝付けなかった私はひぐらしが鳴き始める瞬間を待ってみることにしました。
ひぐらしの声はいつも気が付くとたくさん重なって響いていて、あれは最初から皆で一斉に鳴き出すのか、それとも誰か一匹が先行して少しずつ増えるのか気になっていたのです。
しばらくしてカーテンの隙間からのぞく空がわずかに藍色に見えるかどうか、という頃に遠くから「カナカナカナ…」と一匹の声が小さく響いてきました。それから数十秒のちにもう少し近くで一匹、二匹。やや遠くで数匹と声が重なり始め、少しずつ増える静かな響きがさざなみのようにひたひたと打ち寄せてきて、数分でいつもの朝の声に包まれていきました。
それからは少し遅れて近くでニイニイゼミが「ジーーー」と鳴き出し、ヒヨドリも時々「ヒー!」「ピー!」と鳴き交わして、空が薄明るくなる頃にはすっかりいつもの朝の合唱が出来上がっていました。
その日はひぐらしの鳴き始める瞬間を確認できたので満足でした。
寝不足はすぐに皮膚が悪化してヒリヒリ痛痒くて辛いけど、こういうのは一生の宝物になります。
2020年09月10日
人間は自然から生まれた生物でありピュシスである。
人間は自然から生まれた生物でありピュシスである。
自然界も生物も本来は不潔な存在であり、完全な清潔を求める人間の行動は必ず軋轢を生み出す。
これには完全に同意。
でも、これを単純化して発想した「清潔にしすぎると病気になる」的な思い込みには反対しておく。
清潔をどこまで求めるのかは程度問題だ。そして個人差もある。
程度問題とは、どこまで原始に戻るのが自然なのかということ。
水道の使用をやめ、地面に溜まった泥水を飲んで暮らすのが、自然で健康な人生をもたらすのかどうか。
浄水場で消毒された水道の水を生活に使う方が、今の人間は健康に生きられる。
人間はその技術を開発し、すでにそれを「普通」にしてしまった。
体の負担を減らすように温度湿度を管理した家の中で暮らし、鍵を掛ければ攻撃者は入ってこないという安心感の元に眠る。
それが今の人間の健康の源だ。
それから個人差。
私は少しでも埃や土、カビのありそうなものを扱う際にはマスクと手袋を着用する。
それは、実際に痛いからだ。
皮膚に付いたらすぐにチクチクとした刺すような痛みに襲われる。
吸い込んだ場合は、すぐに来るのは鼻とのどの痛み。
それから遅れて、種類によって様々な症状が出る。
数十分後から数週間にわたって皮膚炎が悪化する物もあれば、数時間後から翌日に酷い頭痛が出る物もある。
埃のついた本を手にとっても痛くない人なら、手袋なしに扱えばいい。
だが私の体質では被害が出る。それが分かっているから予防のために手袋やマスクをつける。
もし手袋なしに触ってしまったらできるだけ早く手を洗う。
気持ちの問題ではなく、皮膚が痛いからで、放置すれば皮膚炎が悪化するからで、洗い落とせばそれらがなくなるからだ。
加えて言うと、私がこんな風に気を付けるようになったのは、大人になって病気が重くなってから。
「子供の頃から清潔すぎる環境で過ごしていたから病気になった」なんてとんでもない。
幼い頃は家の周りは舗装していない土ばかりで、私は近所の男の子たちを率いるガキ大将で、田舎の子らしく泥遊びをしたり、虫を素手で捕まえたり、木に登ったり屋根に登ったり塀の上を走ったり、腰より高い草ぼうぼうの空き地を漕ぎ回ったり、川で魚を捕まえたり……当然、土やホコリや虫やカビに塗れて平気で過ごしていた。
むしろ
「ホコリやカビで死にゃあしない」
と思っていた。
今は
「違ったわ私はホコリやカビや虫で死にかねないわ」
と考えを改めている。
散々痛い思いをして、一つずつ体調に悪影響を及ぼす物、そういう物が溜まりがちな場所などを覚えてきた。
おかげで今では、触る前に「これは素手ではヤバイな」という物や場所がたいてい分かる。
これが、経験したことのない人には理解できないらしい。
思い込みで過剰な行動をしていて、そのせいで病気が治らないのだと思っている。
何度か論理立てて説明してみたけれど、そういう人はその時は理解したようでも、数年後にはまた「無駄に手袋なんかしているからかえって病気が悪化するんだよ」と、したり顔で言ってくる。
結局、理解できていなかったのだろう。
そろそろ私自身は傷付いたりしなくなってきた。
病気のせいで大変な不自由や負担や心の重荷まで背負うことになったとしても、それで得られる体験や思考というのはとても貴重なものだと分かってきたからだ。
それを身をもって示してくれる人生の先輩も少なくない。
理解できない人は、気の毒な人生を送っていると思う。
物事を自分に都合の良いように捻じ曲げて理解してしまうから、本当のことを知ることはできないし、だからずっと自分に自信が持てず、取り繕うためにさらに物事を曲解し続けて、他人も社会も自分自身も、すべてを誤解し続けるしかない。
私はそうならなくて幸運だったとさえ思う。
ただ、でも、すべて「人間」だ。
健康でも、病気や障碍が重くても。
長生きでも、短命でも。
物事を深く理解できても、表面的にしか理解できなくても。
人を癒し続けても、傷付け続けても。
どちらが優れているわけでもない。
それが人間だ。
自然界も生物も本来は不潔な存在であり、完全な清潔を求める人間の行動は必ず軋轢を生み出す。
これには完全に同意。
でも、これを単純化して発想した「清潔にしすぎると病気になる」的な思い込みには反対しておく。
清潔をどこまで求めるのかは程度問題だ。そして個人差もある。
程度問題とは、どこまで原始に戻るのが自然なのかということ。
水道の使用をやめ、地面に溜まった泥水を飲んで暮らすのが、自然で健康な人生をもたらすのかどうか。
浄水場で消毒された水道の水を生活に使う方が、今の人間は健康に生きられる。
人間はその技術を開発し、すでにそれを「普通」にしてしまった。
体の負担を減らすように温度湿度を管理した家の中で暮らし、鍵を掛ければ攻撃者は入ってこないという安心感の元に眠る。
それが今の人間の健康の源だ。
それから個人差。
私は少しでも埃や土、カビのありそうなものを扱う際にはマスクと手袋を着用する。
それは、実際に痛いからだ。
皮膚に付いたらすぐにチクチクとした刺すような痛みに襲われる。
吸い込んだ場合は、すぐに来るのは鼻とのどの痛み。
それから遅れて、種類によって様々な症状が出る。
数十分後から数週間にわたって皮膚炎が悪化する物もあれば、数時間後から翌日に酷い頭痛が出る物もある。
埃のついた本を手にとっても痛くない人なら、手袋なしに扱えばいい。
だが私の体質では被害が出る。それが分かっているから予防のために手袋やマスクをつける。
もし手袋なしに触ってしまったらできるだけ早く手を洗う。
気持ちの問題ではなく、皮膚が痛いからで、放置すれば皮膚炎が悪化するからで、洗い落とせばそれらがなくなるからだ。
加えて言うと、私がこんな風に気を付けるようになったのは、大人になって病気が重くなってから。
「子供の頃から清潔すぎる環境で過ごしていたから病気になった」なんてとんでもない。
幼い頃は家の周りは舗装していない土ばかりで、私は近所の男の子たちを率いるガキ大将で、田舎の子らしく泥遊びをしたり、虫を素手で捕まえたり、木に登ったり屋根に登ったり塀の上を走ったり、腰より高い草ぼうぼうの空き地を漕ぎ回ったり、川で魚を捕まえたり……当然、土やホコリや虫やカビに塗れて平気で過ごしていた。
むしろ
「ホコリやカビで死にゃあしない」
と思っていた。
今は
「違ったわ私はホコリやカビや虫で死にかねないわ」
と考えを改めている。
散々痛い思いをして、一つずつ体調に悪影響を及ぼす物、そういう物が溜まりがちな場所などを覚えてきた。
おかげで今では、触る前に「これは素手ではヤバイな」という物や場所がたいてい分かる。
これが、経験したことのない人には理解できないらしい。
思い込みで過剰な行動をしていて、そのせいで病気が治らないのだと思っている。
何度か論理立てて説明してみたけれど、そういう人はその時は理解したようでも、数年後にはまた「無駄に手袋なんかしているからかえって病気が悪化するんだよ」と、したり顔で言ってくる。
結局、理解できていなかったのだろう。
そろそろ私自身は傷付いたりしなくなってきた。
病気のせいで大変な不自由や負担や心の重荷まで背負うことになったとしても、それで得られる体験や思考というのはとても貴重なものだと分かってきたからだ。
それを身をもって示してくれる人生の先輩も少なくない。
理解できない人は、気の毒な人生を送っていると思う。
物事を自分に都合の良いように捻じ曲げて理解してしまうから、本当のことを知ることはできないし、だからずっと自分に自信が持てず、取り繕うためにさらに物事を曲解し続けて、他人も社会も自分自身も、すべてを誤解し続けるしかない。
私はそうならなくて幸運だったとさえ思う。
ただ、でも、すべて「人間」だ。
健康でも、病気や障碍が重くても。
長生きでも、短命でも。
物事を深く理解できても、表面的にしか理解できなくても。
人を癒し続けても、傷付け続けても。
どちらが優れているわけでもない。
それが人間だ。
2020年07月23日
私は自死を否定しない。
私は自死を否定しない。
どんなに愛する人や愛してくれる人に囲まれていても、未来に可能性があっても、生きていることが耐えられないほどの苦痛と言うのは残念ながら存在する。
本人がよく考えて、「この苦痛が消えるなら全てが消えてもいい」と覚悟して決めたなら、それは人生の選択の中の一つだ。
その人のことを大切に思うなら、その最後の選択を受け入れることもまた優しさなのではないか。
もちろん苦痛が解消されて生き続けたいと思えるようになるのが一番いい。でも残念ながら、それが不可能なことも、ある。どうしても、ある。
本人が納得しての行動なら、「これで全ての苦痛が消える」と感じられた最後の瞬間には、心から幸せを感じることができたかもしれない。
それだけで「生まれてきてよかった」と、自分の人生を肯定できるくらいの幸福を感じていたかもしれない。
自ら命を断ったことで、その人の人格、人生の全てを否定する必要はない。
それでも1つだけ。
30歳なんてまだ子供です。
その時には「自分ももう経験を積んでいい年なのだから、もっと大きな大人になっていなくてはいけないのに」と思うが、50歳になってみれば30歳なんて経験も浅いし何も分からず、子供のままで何も不思議はない。
周りの人が皆もっと立派な大人に見えるのは、全員、見栄を張っているから。
特に40代50代ぐらいまではみんな自分を大きく見せようと必死で虚勢を張っています。本当は皆、自分に自信がないのです。
内心、周りの人は皆立派なのになぜ自分だけがこんなにもうまくいかないのだろう、成長できないのだろうと思っている。実は思春期の頃と大して変わりはない。
そこから10年20年かけて、やっと自分が思う「30代の大人」くらいになれる。
だから30歳やそこらで、その時の自己評価をもとに自らを否定する必要なんてない。
そして、絵描きや小説家など、作品を作る人間によく知られていることがある。
ーー「この作品は手に負えない」、「自分にはとても描き切れない」と思ったら、それこそが描くべき作品だーー
人間も同じです。
自分はダメだ、もっと立派に生きるべきなのにそれができないと思ったら、その人生こそ生きる価値がある。
どんなに愛する人や愛してくれる人に囲まれていても、未来に可能性があっても、生きていることが耐えられないほどの苦痛と言うのは残念ながら存在する。
本人がよく考えて、「この苦痛が消えるなら全てが消えてもいい」と覚悟して決めたなら、それは人生の選択の中の一つだ。
その人のことを大切に思うなら、その最後の選択を受け入れることもまた優しさなのではないか。
もちろん苦痛が解消されて生き続けたいと思えるようになるのが一番いい。でも残念ながら、それが不可能なことも、ある。どうしても、ある。
本人が納得しての行動なら、「これで全ての苦痛が消える」と感じられた最後の瞬間には、心から幸せを感じることができたかもしれない。
それだけで「生まれてきてよかった」と、自分の人生を肯定できるくらいの幸福を感じていたかもしれない。
自ら命を断ったことで、その人の人格、人生の全てを否定する必要はない。
それでも1つだけ。
30歳なんてまだ子供です。
その時には「自分ももう経験を積んでいい年なのだから、もっと大きな大人になっていなくてはいけないのに」と思うが、50歳になってみれば30歳なんて経験も浅いし何も分からず、子供のままで何も不思議はない。
周りの人が皆もっと立派な大人に見えるのは、全員、見栄を張っているから。
特に40代50代ぐらいまではみんな自分を大きく見せようと必死で虚勢を張っています。本当は皆、自分に自信がないのです。
内心、周りの人は皆立派なのになぜ自分だけがこんなにもうまくいかないのだろう、成長できないのだろうと思っている。実は思春期の頃と大して変わりはない。
そこから10年20年かけて、やっと自分が思う「30代の大人」くらいになれる。
だから30歳やそこらで、その時の自己評価をもとに自らを否定する必要なんてない。
そして、絵描きや小説家など、作品を作る人間によく知られていることがある。
ーー「この作品は手に負えない」、「自分にはとても描き切れない」と思ったら、それこそが描くべき作品だーー
人間も同じです。
自分はダメだ、もっと立派に生きるべきなのにそれができないと思ったら、その人生こそ生きる価値がある。
2019年08月07日
心霊写真の違和感
昔はお盆の頃になるとよくテレビで心霊写真を紹介するバラエティ番組があって、それが好きでした。
心霊現象にはあまり詳しくないし、実はそれ自体にはさほど興味はありません。
面白いのは写真そのもの。
動きも音もない写真、写っているのは見慣れた人の姿なのに、その位置や色がおかしいだけであれだけ皆に共通した恐怖を呼び起こすことができる、それはビジュアルの力です。
写真を見ながら、どんな所が怖いのか、そしてそれを怖いと感じるのはなぜか、自分が感じる恐怖の種類や原因を探って行くと、人間が世界にどう対処しようとして進化してきたのかにつながっていきます。
恐怖の原因は強烈な違和感。
怪談噺での「あれ?…おかしい」ってやつ。
違和感を避けることで生物は危険を回避して生き延びてきたのでしょう。
違和感は感動の原因にもなります。
慌ただしい日常の中で物事の本質に気づくきっかけにもなって、それが癒しに繋がることもある大切なものです。
表現は、いかに独自の違和感をうまく含ませて注意を引き、言いたいことを伝えるかの勝負でもあります。
デジタルカメラと画像編集ソフトが一般に普及してから、心霊写真ものはすっかり見なくなりました。
ちょっと残念です。
心霊現象にはあまり詳しくないし、実はそれ自体にはさほど興味はありません。
面白いのは写真そのもの。
動きも音もない写真、写っているのは見慣れた人の姿なのに、その位置や色がおかしいだけであれだけ皆に共通した恐怖を呼び起こすことができる、それはビジュアルの力です。
写真を見ながら、どんな所が怖いのか、そしてそれを怖いと感じるのはなぜか、自分が感じる恐怖の種類や原因を探って行くと、人間が世界にどう対処しようとして進化してきたのかにつながっていきます。
恐怖の原因は強烈な違和感。
怪談噺での「あれ?…おかしい」ってやつ。
違和感を避けることで生物は危険を回避して生き延びてきたのでしょう。
違和感は感動の原因にもなります。
慌ただしい日常の中で物事の本質に気づくきっかけにもなって、それが癒しに繋がることもある大切なものです。
表現は、いかに独自の違和感をうまく含ませて注意を引き、言いたいことを伝えるかの勝負でもあります。
デジタルカメラと画像編集ソフトが一般に普及してから、心霊写真ものはすっかり見なくなりました。
ちょっと残念です。
2009年12月25日
クリスマスに
「雪夜の雪だるま」は、クリスマスカード用なんだけど、キリスト教的モチーフを入れないで、冬のご挨拶的に使えるように描いてみました。
私自身は、一応 基督教と名のつく学校を出てはいるものの無宗教なので、あまり深く意識せず、イベントとしてクリスマス気分を楽しんでいますが、繊細な問題ではあると思うので。
時々、出身校を見て「クリスチャンなんですか?」と訊かれる事があります。
大学は「学生の人種、国籍、宗教は問わない」というのが理念で、学問として教えはするものの、布教をする場ではなかったので、私も西洋美術や文化を知るための基礎のつもりで いくつかの概論等を学びましたが、クリスチャンではないんです。
小さい頃から絵が好きだったんですが、西洋美術を見ていると随所にキリスト教のモチーフが出てきます。
そして小さい頃から音楽も好きで、David Sylvianという とても好きなイギリス人のアーティストがいるんですが、思春期というか、自分の中で色々 悩んでいる時に、彼の考え方や好みにとても共感して、詩を理解したいと思って読んでいたら、どうしてもキリスト教に基づいた世界観を知らないと、本当には理解できないんじゃないか、と思うようになりました。
彼自身はクリスチャンではなく、色んな宗教のいい所を取り入れている感じだと言っていましたが、それでも世界の捉え方の根本が、西洋人の彼と日本人の私では相当 違っていて、一つの単語の意味も違うのではないかと思えました。
そんなわけで、Davidの詩や話している事を原語で理解したい、絵を見たり描いたりするにも役に立つだろう、という思いから、英語とキリスト教について学べる学校へ進む事にしたのでした。絵の勉強は、自分でやろうと思って。
学校では他民族国家のアメリカらしく、お互いに考え方が違って当然、それでも尊重し合おう、という精神が基本にあって、随分 生きやすかったし、勉強にもなりました。自分が普通だと思っている事が普通じゃない人もいる、という配慮は大事にするべきだと思います。
でも、どんな宗教も割と気軽に受け入れてしまえる日本の気分も嫌いではないです。
争いを生まない、終わらせるのに必要なのは、もしかしたら こういう曖昧さ、いい加減さなんじゃないかと思ったりします。
それは あくまでも自分の理解しやすいように相手を勝手に解釈しているだけであって、お互いの違いを理解した上で相手を認められる、という所までは到達していないのかもしれませんが、とりあえず最低限、憎しみの連鎖は生じさせないでいられる、という意味で。
「たとえ不正義の平和だろうと、正義のための戦争よりは、よほどマシだ」ってところですかねぇ。
私自身は、一応 基督教と名のつく学校を出てはいるものの無宗教なので、あまり深く意識せず、イベントとしてクリスマス気分を楽しんでいますが、繊細な問題ではあると思うので。
時々、出身校を見て「クリスチャンなんですか?」と訊かれる事があります。
大学は「学生の人種、国籍、宗教は問わない」というのが理念で、学問として教えはするものの、布教をする場ではなかったので、私も西洋美術や文化を知るための基礎のつもりで いくつかの概論等を学びましたが、クリスチャンではないんです。
小さい頃から絵が好きだったんですが、西洋美術を見ていると随所にキリスト教のモチーフが出てきます。
そして小さい頃から音楽も好きで、David Sylvianという とても好きなイギリス人のアーティストがいるんですが、思春期というか、自分の中で色々 悩んでいる時に、彼の考え方や好みにとても共感して、詩を理解したいと思って読んでいたら、どうしてもキリスト教に基づいた世界観を知らないと、本当には理解できないんじゃないか、と思うようになりました。
彼自身はクリスチャンではなく、色んな宗教のいい所を取り入れている感じだと言っていましたが、それでも世界の捉え方の根本が、西洋人の彼と日本人の私では相当 違っていて、一つの単語の意味も違うのではないかと思えました。
そんなわけで、Davidの詩や話している事を原語で理解したい、絵を見たり描いたりするにも役に立つだろう、という思いから、英語とキリスト教について学べる学校へ進む事にしたのでした。絵の勉強は、自分でやろうと思って。
学校では他民族国家のアメリカらしく、お互いに考え方が違って当然、それでも尊重し合おう、という精神が基本にあって、随分 生きやすかったし、勉強にもなりました。自分が普通だと思っている事が普通じゃない人もいる、という配慮は大事にするべきだと思います。
でも、どんな宗教も割と気軽に受け入れてしまえる日本の気分も嫌いではないです。
争いを生まない、終わらせるのに必要なのは、もしかしたら こういう曖昧さ、いい加減さなんじゃないかと思ったりします。
それは あくまでも自分の理解しやすいように相手を勝手に解釈しているだけであって、お互いの違いを理解した上で相手を認められる、という所までは到達していないのかもしれませんが、とりあえず最低限、憎しみの連鎖は生じさせないでいられる、という意味で。
「たとえ不正義の平和だろうと、正義のための戦争よりは、よほどマシだ」ってところですかねぇ。
2009年09月03日
Winsor&Newtonのサイト
私が愛用している水彩絵の具のメーカー Winsor&Newtonはイギリスの会社なので、公式サイトは英語で書かれています。
でも、ちゃんと各国語版が用意してあって、サイト上部に言語切り替え用の小さな国旗アイコンがあります。残念ながら日本はないんですが、デフォルトのイギリスの他、フランス、ドイツ、スペイン、イタリア、オランダ、スウェーデンの国旗が並んでいます。
で、それはいいんですが……ユニオンジャックの隣に、なぜかアメリカの星条旗が……。
え、“英語”と“米語”は違うってこと?
アメリカ人の使ってるのなんか、あれは英語じゃねえ、アメリカ語だっていう主張!?
で、アメリカ国旗 クリックしてみました。
……何が変わったのか、さっぱり分かりません。
米語なのに、“colour”、“centre”のままってどういうこと……!?
この単語の綴りは、英語と米語の最も分かりやすい違いの一つだと思ってたんですが。
これらは、英語だろうが米語だろうが、 “colour”であり“centre”であるべきであって、“color”や“center”は認めないっていう規範意識!?
さすがは大英帝国様……。
まあ、実際はコーナー自体がいくつか違っているので、それなりに必要あるのかもしれません。でもページはアメリカ向けに作ってやるけど、言語はQueen's English 読みやがれ というこの言語的な主張の強さ……。アメリカ語なんて認めないんだね。
イギリスのこういうところ、結構 嫌いじゃないです(笑)。
でも、ちゃんと各国語版が用意してあって、サイト上部に言語切り替え用の小さな国旗アイコンがあります。残念ながら日本はないんですが、デフォルトのイギリスの他、フランス、ドイツ、スペイン、イタリア、オランダ、スウェーデンの国旗が並んでいます。
で、それはいいんですが……ユニオンジャックの隣に、なぜかアメリカの星条旗が……。
え、“英語”と“米語”は違うってこと?
アメリカ人の使ってるのなんか、あれは英語じゃねえ、アメリカ語だっていう主張!?
で、アメリカ国旗 クリックしてみました。
……何が変わったのか、さっぱり分かりません。
米語なのに、“colour”、“centre”のままってどういうこと……!?
この単語の綴りは、英語と米語の最も分かりやすい違いの一つだと思ってたんですが。
これらは、英語だろうが米語だろうが、 “colour”であり“centre”であるべきであって、“color”や“center”は認めないっていう規範意識!?
さすがは大英帝国様……。
まあ、実際はコーナー自体がいくつか違っているので、それなりに必要あるのかもしれません。でもページはアメリカ向けに作ってやるけど、言語はQueen's English 読みやがれ というこの言語的な主張の強さ……。アメリカ語なんて認めないんだね。
イギリスのこういうところ、結構 嫌いじゃないです(笑)。
2009年08月20日
“Pop is dead” ってフレーズ
すっっごい久しぶりに聞いたなぁ……。なんか懐かしい(笑)。
「ポップは死んだ! おいらのはスーパーフラットだ、うん!」
って、「NARUTO疾風伝」見てたらデイダラがそう言ってたんだけど、スーパーフラットってなんだっけ?
と思って、検索してみました。
伝統的な日本画から、漫画、アニメなどにまで共通する特徴を捉えた、現代芸術の概念で、平面的で、奥行きや遠近感のない絵画表現が特徴、なんだそうです。
漫画(アニメ)のキャラクターが、漫画・アニメ的表現を語ってるのか(笑)。
絵を描いていると、漫画やアニメも「絵」として気になったり、時には参考になったりします。かといって、私自身は、それらの影響をふまえた現代アートとしての表現、なんてところには全然 至ってないんですが。
ただ、時々、私の絵は「日本画みたい」だと言われることがあって、その一番の原因は多分、日本画の特徴に似た描き方にあるんじゃないか、と思っています。立体感を出すため以上には、あまり影を描かないこととか。
別に何かの効果を狙って意識的にやっている訳じゃなく、ただ、見えた通りに描いているだけのつもりなんですが。
もしかしたら、私が日本人だから(国籍じゃなく人種として)なのかもと思ってたりもするんですが、その辺は、機会があれば また改めて。
「ポップは死んだ! おいらのはスーパーフラットだ、うん!」
って、「NARUTO疾風伝」見てたらデイダラがそう言ってたんだけど、スーパーフラットってなんだっけ?
と思って、検索してみました。
伝統的な日本画から、漫画、アニメなどにまで共通する特徴を捉えた、現代芸術の概念で、平面的で、奥行きや遠近感のない絵画表現が特徴、なんだそうです。
漫画(アニメ)のキャラクターが、漫画・アニメ的表現を語ってるのか(笑)。
絵を描いていると、漫画やアニメも「絵」として気になったり、時には参考になったりします。かといって、私自身は、それらの影響をふまえた現代アートとしての表現、なんてところには全然 至ってないんですが。
ただ、時々、私の絵は「日本画みたい」だと言われることがあって、その一番の原因は多分、日本画の特徴に似た描き方にあるんじゃないか、と思っています。立体感を出すため以上には、あまり影を描かないこととか。
別に何かの効果を狙って意識的にやっている訳じゃなく、ただ、見えた通りに描いているだけのつもりなんですが。
もしかしたら、私が日本人だから(国籍じゃなく人種として)なのかもと思ってたりもするんですが、その辺は、機会があれば また改めて。